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  • 執筆者の写真YCARP

【イベントレポート】第20回定例ミーティング(2024年5月18日)

話題提供:吉田綾子さん(障害福祉サービスの相談支援専門員)

テーマ:「32年のケアラー生活を経験して」

〇経歴

 札幌市生まれで、結婚までは兄、父、母と吉田さんの4人暮らし。現在は息子2人と3人暮らしのシングルマザー。保育士→介護福祉士→児童発達支援管理責任者(障害を持つ子どもの療育施設の責任者)→相談支援専門員としての経歴を持ち、今は相談支援事業所(児童から高齢の障害のある人まで幅広い対象に対して)を運営している。

 幼い頃(物心ついた時から)から身体の弱い母や家の手伝いをしながら育った。高校1年生の時に母がパーキンソン病の診断を受け、それ以来32年間、父とともに母の介護を担ってきた。兄は母の介護にはそれほど携わらなかった。現在は父の介護も一段落している。


〇高校1年生から母のケアが始まった

 母は40代後半から主に情緒面で不安定な日々が続いた。ヒステリックになったり急に落ち込んだり、子どもの目から見ても調子が悪そうな状態だった。加えて、「椎間板ヘルニアの手術をして約半年の入院」が2回ほどあった。母のイメージは病弱でいつも寝ているイメージ。40代後半以降、それまでとは違う意味で不調になった。父の会社で経理として勤務している際、徐々に指に力が入らなくなってきたとの事。脳神経をはじめ様々な病院を巡りに巡ったが原因がわからず、最終的にはパーキンソン病と診断されその病院は、以降32年のお付き合いになった。当時、このパーキンソン病は非常に珍しい病気で、「何それ?」という感覚。医者の口からは治療法はなく、薬も先進的なものはないと告げられ、筋力の維持のためのリハビリに努めて下さいとの助言があった。薬とリハビリを継続して、確定診断を受けたのが50歳だった。わけのわからない体調不良に悩まされ、めぐりめぐって下された診断が治療法のない病気。元々精神的に弱かった母親が特に不安定になり、時には暴言等もあり、自殺未遂を2度した。それ以降は「死にたい」という口癖になり、鬱症状とも付き合っていく事になる。吉田さんご自身は朝起きたときも学校にいる時も、母の体調が気がかりで「早く帰らないと」という考えになっていた。一番辛かったケアは、身体のケアではなく精神的な面のケアだった。


〇福祉や医療との連携まで

 そんななか、母や父は医療以外のヘルパーやデイサービス等の福祉的支援を当時は一切拒否していた。人様に頼る事への強い拒否感からであり、これが吉田さん一家のケアの孤立状態に繋がることになる。後に福祉サービスとも繋がったが、かなりの時間を要した。このころ高校生だった吉田さんは、家と高校を行き来するだけの生活がやっとの状態だった。その時に父の言葉としては、「娘とは言え高校生なんだから。女なんだから、手伝いするのは当たり前」というものでありそれは最後まで変わらなかった。最終的に介護保険の制度を利用し始めたのはケアが始まってから10年以上経ってからだった。制度開始時の母の要介護度は3で、身体的にもかなり低下している状態だった。ヘルパー等の利用が始まったが、母としては不本意でしぶしぶサービスを受けている感じだった。

 サービス受給のきっかけは、父親のがんの発症だった。早期発見だったため、大事には至らなかったが入院が必要である事や、母の転倒が多く、これらが重なった結果、デイサービス・ヘルパーを初めてみようという動きになる。一方それまでも人の手を借りる事に否定的な考えを持っていた父親から言われていたのは「母の病気の事は誰にも話したらダメだからな」というものだった。友人にもなかなか打ち明けられず、そういった日々が当たり前の生活になっていた。辛かったのは「家に帰ること」。だけど「家族だから仕方ないよねという感覚」。


〇ヤングケアラーからケアラーへ

 32年というケアラー生活のなかで。○○ケアラーという言葉をほとんどすべて網羅した感覚(ヤングケアラー、ビジネスケアラー、ダブルケア、、、)。ヤングケアラーからケアラーへというなかの26歳で結婚、7年ほど北海道を離れ、北関東で暮らす事に。この結婚に親は猛反対。ケアラーにとって、進学や就職、結婚などの節目節目には「親のケアありき」で考えなければならない。吉田さんの場合は「娘で女で」という事から父親がとにかく手元に置いておきたかった。結婚相手のご家族が理解してくれ、年1.2回は北海道に戻って親のケアをする事を条件に結婚したとのこと。子どもが生まれてからは、託児所に預けたりベビーシッターに来て貰ったりして親のケアに行っていた事がルーティン化していた。

 その後離婚を機に北海道に戻るが、そこで始まったのが「ダブルケア」。次男の発達に心配があり、言葉が遅く母子療育に通う事になる。介護と仕事と子育てで混乱していたのが30代。それと共に母の情緒面も悪化、身体的にも衰えはじめ、車椅子生活になっていた。仕事中や夜中に母からの電話が鳴る事も多々あり、被害妄想に付き合わなければならなかった。その影響もあり履歴書には入りきらないほどの転職を繰り返していた。母の事、仕事の事など様々に積み重なった結果、吉田さん自身にも影響が出てきた。摂食障害に始まり、鬱症状が出て外に出る事が怖くなり、パニック障害により救急搬送された事も。医師からも、物理的に限界だから両親と離れるよう言われたが、「両親を見捨てる自分は悪い人間だ」という自分を責める気持ちが強く、それはできないとずっと思っていた。父から、家から近い父の会社で働かないかという誘いがあったが、それをすると四六時中両親と顔を付き合わせる事になり、それはできないと断った。


〇末期症状から看取りまで

 その後、徐々に母は末期症状に。介護保険サービスに最初否定的だった母親の口から、デイサービスに通う中で「お友達」というワードが聞けるようになった。人付き合いがそれほど好きではなかった母親の口からそのワードが聞けて、嬉しい気持ちになった。サービス利用開始から、少し負担も減り気持ちも楽になった。父も、年齢を重ねていくにつれて体力の衰えを感じ母のケアもきつくなってきた頃、母の口からが「やっぱりお父さんのために施設にいくよ」という事が聞け、一時特別養護老人ホームに入所した。しかし、家以外の場所に慣れておらず、入所後に妄想や幻聴などが更に悪化してしまった。施設の方からも、薬の調整がてら一度入院するのはどうかという勧めがあり、かつてパーキンソン病の診断を受けた病院に入院。昔から知っている故の安心感なのか、少し落ち着いた一方で精神的な不安定さは変わらなかった。

 その後、療養型へとなったが、母の口からは「家に帰りたい」という言葉が多々あった。GW・お盆や正月などの長期休みの外泊で家に帰った際は、日中は吉田さん・夜は父が面倒を見るという交代制で母の外泊をサポートしていた。次第に車椅子にも座れずに末期症状へ。薬も嚥下困難により飲むことも難しく、ますます身体機能が低下。母は食べるのは好きだったため、「食べたい」とよく口にするようになったが、点滴で栄養を摂っているため、あまり食べさせないよう医師から言われる。それでも食べたいという気持ちが強く、吉田さん自身にも食べさせてあげたいけど、という葛藤があった。残り短くなった時、看護師との相談の上で、母の好きだったおいなりさんの揚げさんのお汁をガーゼに染みこませて母の口元に運ぶと、母はしっかり「ごっくん」して嚥下する事ができた。その数日後に亡くなった。

 仲が良くない夫婦だったため、ケアが始まって以来いつ離婚するかわからないような考えを持っていたが、父は献身的に母のケアをし、そんな父を放っておけないという吉田さんの気持ちもあった。今でも吉田さんはそんな父には頭が上がらないという。


〇医療との関わり・私という存在

 病院への付き添いや障害者手帳の申請の中で、ソーシャルワーカーとの面談等に同席する事があり看護師やワーカーさんとは顔見知りだった。母の介護の中でのキーパーソン(主たる介護者)は父親であるが、吉田さんへの眼差しは「ただの付き添い」という認識であり、ケアを担っているという認識をされていなかった。吉田さんは、「私」という存在に気付いて欲しかったし、私もケアを担っているという事を知って欲しかったという寂しさを感じていた。「透明人間」のような気がしてならなかった。



〇相談支援の仕事で出会ったヤングケアラー・ケアラー(相談支援の中での出会い)

18歳の難病の高校生

  • 高等支援学校に通いながら入退院を繰り返していた

  • 母は精神疾患、祖母は介護が必要、妹はまだ保育園⇒母子家庭、生活保護受給

  • 母も祖母も働けない状態(祖母は介護サービスを受けていない)

  • 母と祖母が体調が悪い時は本人が学校を休んで家の事をしていた

  • 本人が体調が悪い時もある

  • 大学進学希望がある一方で、家の経済状況や介護の事で難しいかもという葛藤

  • 自分で受験対策本を買って勉強するほどの学習意欲


⇒①祖母はケアマネジャーを介して要介護認定

 ②母は精神疾患+膝も良くない→ヘルパーの導入


結果としては、本人の大学進学は断念(家から離れなければならない・生活保護が減ってしまう等の理由も)

⇒吉田さん自身は納得できない部分もあったが、彼の選択を応援しようという気持ちに


○「認知症の母親をどうしたらいいですか?」

【認知症と思われる母】

  • 診断を受けてもらいたいが、受けさせてもらえない

  • 認知症と思われる言動や行動が目立ち、近所に迷惑をかけたり警察沙汰になる事も

  • 2人の姉はしないに在住だが、結婚して家庭がありなかなか協力が得られない

  • ☆介護保険の事がよくわからない

→解決策の第一歩として、かかりつけ医に相談(かかりつけ医も認知症かもしれないと気付いてはいたが、家族からの相談がなかったため検査を勧める事ができなかった)

  • その後診断を受けると、認知症で要介護度が3、かなり深刻な状態だった


⇒現在は、デイサービスやヘルパー、ショートステイ等を利用しながら在宅で世話をしている

  • 辛くなったらリフレッシュできる環境もある、という報告もあり何とか生活を整えられている


〇まとめ・思う事

  • 長期間のケアに及ぶ事で色んな感覚が麻痺、「助けて欲しい・相談したい」とあまり思わなくなる。一方で辛くもやもやしている。相談等まで頭が回らず考えられなくなっていた。

 →この部分もソーシャルワーカーさんに拾って欲しかった


  • ヤングケアラーに対して、特別な支援というよりもコミュニケーションの継続が最も重要だと思う

  • 「ちゃんと見てるよ、気にかけてるよ」という言葉にしない支援も必要


  • 32年間、色々あったが本当に辛かった。母の最期の時にお世話になった療養型において、看護師さん達がすごくよくしてくれた。「よくここまで頑張ったね」と言われた時に、涙が出てきた。母のおかげで今の仕事に就いた。母のケア生活が今の仕事に繋がっている事に本当に感謝している。


  • 母の死後、父の介護が少し始まった。徐々に一人暮らしもできなくなり、車での事故も起きてしまった。そして退院後、兄との相談の上で父を施設に入所。しかし、その後父方の親族から「母の時と違ってなんですぐに施設にいれるの?」等のバッシングの声と戦っている。


吉田さん曰く、「アフターケアラー」という新たな枠組みの必要性がある。


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