第15回定例ミーティング(2023年6月17日)
話題提供:五十嵐大さん
テーマ:「耳の聴こえない両親に育てられて感じた、社会に求めたいこと」
前半では、自分の生い立ち、家族との関係の変化についての話、後半でヤングケアラーという側面から見るとどのような体験をしてきたのか、そこでの葛藤とその結果社会に何を求めたいと感じたのかについてお話しいただいた。
〇プロフィール
1983年、宮城県塩竈市生まれ。職業は作家。主にエッセイで、『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』、『聴こえない母に訊きにいく』などは耳の聴こえない両親との関係を描いている。ライターとしての活動もあり、過去に日本財団ジャーナルというwebメディアでヤングケアラーの連載をしていた際にYCARPの取材をしたご縁で、今回の講話に至っている。
思春期を過ごした80年代~90年代はインターネットが普及しておらずSNSがなく、ヤングケアラー、コーダという仲間がいることを知る機会がなかった。今振り返ると、当事者を孤独にする要因になっていたように感じる。
〇家族構成
父は幼いころの病気が原因で聴力を失った後天性のろう者であり、母は、生まれつき耳が聞こえない先天性のろう者である。祖父は元ヤクザで、祖母は祖父が元ヤクザであることや娘に障害があることを解決しようと思い、宗教に入信した。そのほかに、母の姉(伯母)が2人近くに住んでいた。
〇CODAについて
コーダ(CODA)とは、Children of Deaf Adults の頭文字をとった言葉で、聴こえない親のもとで育った聴こえる子どもを意味する言葉である。1983年のアメリカで誕生したと言われる。コーダの家庭は親が障害者なので貧困になりがちであり、貧困層にあたるコーダの進学のための基金も設立されている。
日本には2万2千人くらいのコーダがいると推定される。コーダは耳が聴こえるし、話せるので困難がないように思われがちだが、聴こえない親との間の壁や使用する言語でのすれ違いといったコミュニケーション不全から困難を感じることがある。しかし、日本ではまだ理解されておらず今後の解決すべき課題の1つになっている。
《家族のことを受け入れるまで》
コーダの家庭は、耳の聴こえない親が自分の子どもに不便さを感じさせない、かわいそうと思わせないように工夫して子育てをするから、幼少期は幸せと言われることが多い。
五十嵐さんも、幼稚園から小学校に上がるまでの時期は休みの日にピクニックに行ったり、魚釣りに連れて行ってもらったりと幸せに過ごしていた。しかし、小学校という社会に接するようになり、自分の環境が普通でないことを知るにつれ、幸せなはずの家庭や親子関係が徐々に崩れていった。このことはコーダの1つの特徴とも言われる。
当時は、多様性という概念もなく差別や偏見があからさまにぶつけられたので、中学、高校と上がるにつれ、親を否定するようになっていった。20歳をすぎたころ、障害のある親に育てられている子どもという普通の枠からはみ出ている環境を捨てて誰も知らない土地で普通の人として生きていきたいと思い上京した。
①乳幼児期
日本語は耳の聴こえない両親に代わり、祖母から学んだ。ただ、祖母の言葉は方言が強く年寄り言葉であるため、幼稚園や小学校でその言葉遣いを笑われることがあった。
五十嵐さんは両親と手話で会話をしていたが、その当時は手話や手話使用者への偏見が強かったこともあり、祖母は手話を覚えても意味がないという考え方であった。そのため日本語を使用できる五十嵐さんが手話を使って両親と会話をすることへの抵抗や懸念があり、手話を覚えても意味がないという考えにつながっていたように思う。
②子ども期
小学校に上がり、徐々に周囲との違いを自覚するようになっていくなかで、「障害者の子どもはろくな大人にならない」と近所のおばさんに言われたように、差別を身をもって感じていった。当時は、差別を受ける原因が障害者の両親にあると考え、社会ではなく両親に対して怒りをぶつけるようになっていった。
③青年期
中学・高校時代は家庭環境を一切誰にも話さないなど親のことを徹底的に隠すようになっていった。ただ、親を否定する気持ちと同時に自分が親を守らなくてはいけないという正反対の気持ちとの間で揺れており、苦しかった。結果的に、親に期待をしないという選択をするようになり、悩み事を親に相談することはなく進路等の悩みも自分1人で解決する生き方を選んだ。コーダの人の特徴として言われることは非常に大人になるのが早いということ。自分が大人になりどんなことにも対応しないといけないということがあるが、それは他のヤングケアラーにも通ずることなのではないかと思う。
④成人期
金銭的理由が大きく、障害のある親にお金を出してもらってまで大学に行く意味はないと1人で考え大学進学もあきらめた。しばらく就職せずにいると、近所の人たちから「両親の耳が聴こえなくて大変なのにどうしてあなたはもっとちゃんとしないの?」ということを繰り返し言われた。きっと他の同世代の子であれば言われないであろうことを言われ続けたこともあり、地元に残っている間は、障害者の子どもとして頑張らないといけないのだないう思いが強くなり、20歳をすぎて上京した。
東京では、聴覚障害のある友人ができたり、コーダという言葉の存在を教えてくれた人に出会ったりする中で少しずつ両親への見方が変わっていった。東京に行っても、東日本大震災や祖父母の死、父の病気など、家族と向き合わざるを得ない出来事が定期的にあった。そのたびに、家族を守りたい、特に両親のことは守りたい、だけど東京で1人の五十嵐大として生きていきたいという相反する感情があった。
⑤両親の障害を受け入れられるようになるまで
コーダは親を肯定する気持ちと否定する気持ちとで揺れ動きやすい傾向にあると言われている。どうして障害のある親を受け入れられないのかを考えるなかで、受け入れる、受け入れないではなく、親の障害は「当たり前のこと」であることに気づき、そういうものと思って接していくしかないということに気づいた。また、東京と宮城という物理的な距離が開いていたこともあり、親との関係を見つめ直す時間もできたことで、親を1人の人間としてみるようになっていった。結果、現在両親との関係も良く、両親のことを今愛しているんだなと思っている。
〇ヤングケアラーとして生きてきて
コーダがヤングケアラーにあたるかどうかについては、当事者のなかでも議論が分かれるものの、通訳という一面があり、該当すると思っている。
五十嵐さんがヤングケアラーとして担っていた大半は通訳だった。日本語と日本手話というものは全く異なる言語であり、親に正しく情報を理解してもらうためにコーダは通訳をする必要に迫られることがある。
通訳をする場面は、主に社会と家庭内だった。社会における通訳は行政や保険の担当者、学校の先生とのやりとりになってくる。家庭内でのやりとりは、親戚のなかでの盛り上がっている会話の内容を伝えたり、回覧板の内容の確認等を通訳していた。通訳の中で一番つらかったのは、祖母と母が喧嘩をしたときに、やりとりのズレを埋めるために、2人の喧嘩をなだめるのではなく、喧嘩がスムーズにいくように通訳することだった。
〇通訳における絶望感
通訳すること自体は嫌ではなかった。同世代の他の子にはできないことをして親の役に立てているということが自己肯定感を高めてくれていたからだ。一方で、役所の人とのやりとりなど、うまく通訳できない場面を経験するなかで、役に立たないもどかしさが生まれてしまい、私は親の役に立たないのだという絶望感を味わった。
〇ヤングケアラーとして嫌だったこと
ヤングケアラーの体験として1番嫌だったことは偏見だった。周囲からのレッテルによってかわいそうな子どもになってしまっていた。あるいは、過剰に褒められることによって親子関係が歪にひっくり返ってしまい、まるで自分が親のような不思議な関係になってしまう。そうした社会のまなざしがつまりは偏見であり、コーダの生きづらさにつながっているように思う。コーダは親のためにすごく頑張ってしまう人が多い。でも、それは子どもとして適切なことではないと思う。周囲が褒めるとより背伸びをして頑張ってしまい、子どもらしく生きられなくなってしまう可能性がある。社会からのまなざしや外部からの抑圧のようなものが今振り返ると一番嫌だったように思う。
〇コーダとして社会に求めること
まずは、コーダへの偏見の是正。決してかわいそうな存在ではない。社会はマイノリティの子どもをかわいそうな子とみなしてしまう。そのまなざしが当事者を追い詰めていくことにつながっていくことを理解してもらう必要がある。
2つめは、聴こえないことをカバーするテクノロジーの存在がうまく周知されていないこと。特に、情報の貧困状況にあるコーダに対してテクノロジーの存在をどのようにして届けていくかを考えてほしい。
3つ目は、コーダという仲間がいることをもっと当事者に知ってほしい。そこにいけば分かり合える仲間がいるという安心できるコミュニティが必要だと思う。日本にもJ-CODAという団体があるが周知は足りていないし、各都道府県にコーダだけが集まれる場を作りそこで悩みを共有できるようになっていくとコーダの生きづらさは減っていく気がする。
4つ目は、手話に対する正しい理解をしてもらうこと。手話というものが、福祉のツールではなく1つの言語であること、日本語とは全く違う1つの言語であることを理解するといった正しい理解を社会に広め偏見がなくなっていってほしい。
最後に、社会が変わってきたことを実感することがあった。父が癌になり、入退院を繰り返すことになった。私は通訳が必要であると考え、初回の入院時に宮城に帰省し病院まで付き添った。久しぶりにコーダとして通訳する場面が来たと覚悟して行ったが、看護師や医師がメモでの筆談やディスプレイを使って分かりやすく説明するなどの対応をしてくれたことで、通訳をする場面は1回もなかった。何より嬉しかったのは、通訳をしていた当時は、相手が私を見て話すため両親が透明化された存在に思え虚しさを覚えていたが、今回は、私を一切見ることなく両親の目を見て、両親に頑張って伝えようとしてくれていた。社会は変わらないと思っていたなかで、社会は少しずつ変わるのだという希望を見出せる出来事だった。もしかすると小さなレベルで、日本中で少しずつ変化が訪れているんではないかと思っている。こうした小さな変化の連鎖を大きな変化につなげていけるように、色々な人とつながって社会を変える手伝いができればいいなと思っている。
Comments